刻の流れ探訪 | ||
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八王子の中でいくぶんなりと「メジャー」な歴史 | ||
八王子千人同心は、江戸時代初期、徳川家康が甲州武田家の遺臣を召し抱え 江戸の西の守りとして八王子に配したのが始まりとされています 西八王子の近くにある千人町はその千人同心の町 いずれ少づつ八王子千人同心の姿をご紹介していくとして... (このページは今後増やして行きます) |
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幕末のころ、千人同心組頭 石坂弥次右衛門義礼のことなど | ||
JR西八王子駅から東に5分程 追分町の隣、千人町 住宅街にひっそりとたたずむ興岳寺 その門前に「教育委員会」と記された 一枚の掲示板があった 幕末のころ、千人同心頭 石坂弥次右衛門義礼の事蹟 日光東照宮に拠って官軍と一戦するという話が 何故立ち消えになったかよく判らなかったのだが はなばなしい主戦論の歴史の陰に こうした先人の努力と犠牲という郷土史があったのだ |
千人同心の役割が「江戸の西の守り」から 家康を大権現として祀る日光東照宮の警護へと変わって行く これを「日光勤番」という 「郷土八王子には攘夷派の批判もあり」とあるが 幕末、八王子は天領(将軍さまの直轄地)であって 佐幕色が強かったはず 「佐幕派の批判もあり」ではなかろうか なんといっても新撰組を育んだ地 甲陽鎮撫隊(「追分町」参照)を送り出した地なのである |
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八王子千人同心 DATA | ||
■八王子の郷土資料館で「八王子千人同心の展示」をやっておりました。当時の地図や写真等々、まったく何も知らない私には衝撃的なもんでありました。おかげで郷土資料館から最近出版された「千人のさむらい〜八王子千人同心〜」(村上直法政大学名誉教授監修、価格\1000也)という本まで購入してしまいました。これで私もちょっと千人同心にはうるさくなるはず(^^;;) ■昔の名前って...少し解説ね 「石坂弥次右衛門義礼」。ファートネームは義礼なのですが、わが国の武士階級では「石坂弥次右衛門」はその家の当主が代々受け継ぐ名前。祖父もおやじも息子も、一家の当主となったらその名前を継ぐのです。商家などでも「〇〇屋〇〇衛門」が世襲名、などということはよくあった話。「家を継ぐ」という文化が崩壊して、現在ではそうした習慣がなくなっているようですが。寂しいものです。欧米のミドルネームとはちょっと違う文化でした。 ■上記の写真は2004年2月 ■リンク 歴史的な解説などは沢山のサイトがありますのでそちらにお任せするとして(^^;)ゞ 八王子千人同心のことなどを紹介したサイトです 八王子千人同心組頭の屋敷(東京たてもの園にあるのだそうで) |
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